Bud Powell - Cleopatra's Dream


#3  Cleopatra's Dream

その夜、タンタンの店を訪ねた。
山下町の運河の河口近くの4畳ほどのショット・バーに毛の生えたような店だ。
古びたダイヤトーンのスピーカーが古臭いジャズを奏でている。
タンタンは先々代のばあさんから店を任されている雇われママといったところか。
その婆さんと言うのが荒っぽい外国人船員相手に酒もクスリも女も
カネになるものはなんでも商売にした“ハマいちばんのやり手ババア”として
名を成したひとだったが、さすがに店を他人にまかせた今では静かにしているようだが。
タンタンに言わせると「だってもう百歳越えてるんだから・・」
どうも裏の世界に暗躍する中国人というのは長生きするらしい。
大陸生まれのその婆さんは、同郷のタンタンに店を任せて
悠々自適な老後の生活をこの近くの有料老人ホームで楽しんでいるらしい。
日本の高度成長期に作られたこの狭い店も、いまとなればいい感じに古くなった。
コンクリートの打ちっ放しの壁、エボニー材のカウンター。
品数なんて知れたものだがここで呑むものといえば
ワイルドターキーをショットグラスでやるぐらいのもので。
腹が空けばタンタンが手際よく作るナポリタンをかきこむぐらいなもので。
だいたい他の物を頼んだことが無い。
だからいったいどれほどのツケが貯まっているというのか_?

タンタンと知り合ったのはもう何年も前のことだ。
「日課にしていた」山下公園のジョギングをしていた途中だった。
今にも大泣きしそうな曇天、たしか夏前だったか。
噎せるような湿気に港全体が覆われていた夜明けだったか
不況の日本に売られてきた娘が、使い捨てられ失望して泣いているのに出会った。
この世に身寄りの無い男と女が居場所すら失って、しかし死ぬ勇気もなければ
ひとときの情欲に身を任せて。
あぁよくある昼メロの展開を地のままで。
だが黒髪の美しい彼女はやがて“ハマいちばんのやり手ババア“の世話になり、
しかし水商売ながら全うな仕事を得た。
蝶ネクタイに黒いベストに純白のシャツというのは其れなりの身奇麗さを演出していた。

タンタンは以前ほど「薄幸な」“輝き”を放ってはいないが、白い整った面長な顔が
澄み渡ったように笑ったことなどは見たことが無い。
なのに。そんな女なのに。
いや、だからこそ・・か。
純情可憐な・・男心は。
幸薄い女に惹かれてしまうのだろうか_。

「なかなかいい物件がなくてね・・この不景気だから手放す人は多いらしいけど
あの辺りの出物は、すぐに売れてしまうのよ。」
この港が一望できる丘の上の古びた洋館に住みたがっていることは昔から
聞かされてきた。
「坂を下りれば一直線でここまで辿りつけるじゃない。」
そりゃまぁそうだが・・
「横浜離れる気は無いの?」
オレは不躾に聞くと、タンタンは物憂げな表情を見せた。
「海に近いところにいたいのよ。故郷に繋がっているような気がするから・・」
大陸出の女は皆、同じことを言うのか_。
「それに・・ここの仕事、気に入ってるし。」
いつもの笑顔を見せてくれた。

「ところで、オレのツケはどのくらい貯まっているんだい?」
タンタンは不思議そうな顔を見せる。
「いままでお金なんて払ったこともないくせに・・。」
いつもツケ払いのつもりで・・それがいつのまにか・・嵩んで・・嵩んで・・。
「いいわよ、いまさら・・計算もしていないし・・」

そういうわけにはいかないんだ_。



ふと目に付いたのがこの店のもうひとりの店員。
寡黙にしてグレーのバーテンベストを着た老練な白髪交じりの“紳士”。
客の求めに応じてシェイカーを振る身の丈150センチほどの男。
常に厭味にならない笑顔を浮かべ、しかしあるものにはその存在感すら感じさせず
しかしあるものには店の顔であるタンタンより強烈な印象を与える男。
この古臭い店の歴史そのもののようなこの男と、久しぶりに目が合った。
「よぉ、久しぶりぃ。」
男は会釈し軽く笑みを浮かべる。
「久しぶりに振ってくれないか・・そうだなソルティ・ドッグなんかさ。
ステアじゃなく、シェイクしてくれないか。」
男は戸惑いながらも手際よく準備を始める。
切ったレモンを冷したグラスの口に走らせる。
グラスを下に向け食塩をつけスノー・スタイルにする。
オレはタンタンに角の店で葉巻を買ってきてくれ、と頼む。
随分羽振りがいいじゃない、と愚痴をこぼしながらタンタンが店を出た。

「オレが知りたい金額・・知ってるんだろ?」
男は笑いながらシェイカーに氷を詰め、ウォッカとグレープフルーツジュースを入れる。
一端シェイカーを握ると表情が変わり、いっきにシェイカーを振る。
「こんな注文をするお客様は初めてです。
ここのオーナーのホンファ(林杏)さまはチェンタイ氏の同郷のご友人で
こちらのお店の不良債権は全てチェンタイ氏の“中華同胞金融株式会社”で
清算するようになっておりますから・・手前どもにはお客様の売掛金はございません。」
シェイクされ泡だった液体がグラスに注がれ丸く削った氷を入れて、
コースターと一緒にグラスが差し出される。
「まぁお客様は御贔屓にされてくださるので、お教えしましょ。
飲食代100万に金融会社の手数料が300万、それに彼女に係わる費用が600万ほど。
〆て1000万ほどになりますか。このことは彼女は知りません。
手の荒い連中なのはご存知の通り。
お早めの完済をお奨めいたします。」
思わず唾液を飲み込んだ。
たいした金額じゃないか。
払えないとはいえない。
払わねば彼女の身に危険がせまる可能性がある。


「これは、私からお客様へのプレゼントということで。」

男の言葉が妙に引っかかる。
鼻をならすとグラスを手に取り、舌でグラスについた塩をなめる。
グラスを傾けると泡立った甘ったるい液体が口の中に広がる。
タンタンが戻ってきたので、葉巻を袋から取り出し火をつける。
オレはタンタンに尋ねた。
「こないだ殺されたチュンメイって娘の親って知らないかな?」
タンタンは怪訝な顔をした。
「知らないわよ。でも、チャーリーなら知っているかも・・」
男の名前がチャーリーというのを初めて知った。
丸眼鏡の柄を押さえて振り返るとチャーリーは再び厭味のない笑顔を見せた。
「チャイナタウンの外れの広州アパートの確か三階か四階かに
お母様が住んでいたってハナシを聞いたことがありますね。
確か雪蘭(シュエラン)と云ったかな・・不確かですが、そんなとこです知ってるのは。」
オレはチャーリーに微笑んだ。
「ありがと。恩に着るよ。」



オレは葉巻を咥えたまま、ドアに向かう。
「あぁ・・やはりソルティ・ドッグはシェイクしちゃいけないよな。」
タンタンはなんのことか分からないような顔をしたが、オレは店を出た。







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