「特別医療養護施設」



Krzysztof Penderecki - Agnus Dei





  近来増加し続ける薬物依存者の中には妊婦も認められるようになり,
 妊娠中に薬物を使用していた母親から生まれてきた胎児に
 種々の奇形などの異常が認められることが問題となってきた.
 覚醒剤の胎盤通過性や催奇形性が考えられることから妊娠動物に覚醒剤を投与し,
 仔に対する影響を見た多数の研究報告がある.
  まず,覚醒剤の胎盤通過性に関しては,妊娠した羊に試薬を静脈投与したところ,
 試薬は投与後30秒で容易に胎盤を通過し,投与2時間後の胎仔臓器の濃度で様々な
 心病変が出現するが,動物種,覚醒剤の種類,投与期間,投与量などにより,その病変は
 変化するものと思われる。

 他の報告に述べられている通り,発育の遅延,障害を生じることが証明された。
 次に心臓の組織学的所見であるが,対照群に比し,核の変化が目立った.
 MA投与群においては対照群に比し,核は大小様々であり,巨大なものや
 小さく萎縮あるいは凝縮するものもあり心筋線維の粗鬆化,すなわち筋原線維の数が
 少ないことであった.光顕では細胞質は明るく,空胞状を呈していた。
  次に,ミトコンドリアの異常が見られたが,このような心筋障害は,
 通常,虚血,低酸素症によるとされている.

  したがって,このミトコンドリアの異常はあるいは胎仔の酸素欠乏によるかもしれない.
 昨今の脱法ドラッグと称される合成ドラッグを摂取した妊婦の胎内から
 これらを凌駕する母子ともに致命的な症例 も報告されている。
 覚醒剤を初めとする種々薬物依存は今後とも増加するものと考えられ,
 法規制の枠を柔軟なものとし社会全体でそのような風潮を阻止することが大切である.
 

  科学警察総合研究所化学研究室 室長  



急な坂を下りショッピングモールを超えてJRの駅に向かうと
目の前に広がる軍港に浮かぶ護衛艦が見えた。
かまぼこ型の背を見せた潜水艦も見える。
本牧とは違った光景に同じ海でも違うものだなと感じた。
JR横須賀線に乗りこむ。走り出すとすぐにトンネルに入った。
電車を降りると先程とは違い山が間近に見えた。
そこからタクシーに乗り指定された施設に向かった。
山間部にひっそりとしかしかなり大きな施設だった。
オレのいた孤児院のようなイメージを持っていたが
実際に来てみるとそこはまるで病院のような殺伐とした影を落としていた。
まるで刑務所のような窓枠に設置された鉄格子といい、
いたるところに設置された監視カメラといい
その異様な雰囲気というのは裏側に迫った山が落す影のせいばかりではなかった。

「特別医療養護施設」




 受付で入場者名簿に名前を書く。
受付の女がオレの名前を見て「ヘイ・ゲンさんですか?失礼ですが中国の方ですか?」
生まれてこの方このやり取りには相当嫌気がさしている。
「平巌(たいら いわお)です。こてこての日本人です。」と引き攣りながらにこやかに返した。
ヤリ手婆の手筈通りに婆の名刺を渡すと応接間に通された。
施設長という50過ぎの華奢な体つきの禿げ上がった男が対応してくれた。
そこで預かっていた高額な小切手を提示すると、深々と礼をされた。
「失礼ですが、坂谷さんとはご面識は?」
施設長が切り出してきたが、オレは表情一つ変えずむしろ低い声で微笑みながら云った。
「余計なこと聞くなよ。オレは雇われてここに来ただけだ。」
施設長は頭を下げ、部下の医療長という男にオレの対応を任せた。
白衣を着て黒縁の眼鏡をかけた顔色の悪い男が現れオレに手招きした。
「では、こちらへ。」
オレが廊下に出ると、医療長と丸々と太ったベテラン看護婦が着いて案内してくれた。
「坂谷法和(さかやのりかず)くんは、現在四階の個室に居ます。」
廊下を進むと両側のガラス窓越しに少年少女たちが我々に虚ろな視線を向けた。
その破棄の無さ。無表情さ。というものは冷たいものを感じた。
中にはボンベに繋がった呼吸器を着けている子供もいる。
「こういう施設をご覧になられるご経験はありますか?」
ベテラン看護師がたしなめるように尋ねてくるので、「孤児院にはいたことがある。」
とだけ答えた。
「ここは孤児院や一般の養護施設とはかなり違う部分もありますから。
ここは特殊な医療を必要とするこどもたちの施設です。
もしご気分が悪くなられましたらすぐに仰ってくださいね。」

エレベータを降りると4階のフロアは最上階であるにもかかわらず暗い廊下だった。
鋭く寒々しいLEDの薄暗い照明がボンヤリと長い廊下を照らしていた。
このフロアは云わば刑務所でいうところの・・独房だ。
それぞれの部屋の中からはうんうんと呻くような声が聞こえてくる。
404と書かれたドアの前に来ると医療長が説明を始めた。

「坂谷法和くんは現在17歳になりますが先天的な臓器障害があり、
生まれ持っての薬物依存傾向があります。
ここの医療養護施設では法和くんの薬物依存症を緩和するために
あらゆる努力をしてきましたが、禁断症状による自傷行為が激しく、
また他のおこさまたちにも危害が及ぶ事例もありましたので。
禁断症状を抑えるために極低濃度の麻薬を・・
いや禁止薬物ですが・・特例で投与しています。
その結果、幻覚を見て粗暴になりますので、
人命尊重の見地から致し方なく拘束衣を着用しています。」

ドアを開けると真っ白な壁と床の部屋。
だが薄暗い照明がつけられている、無機質で陰鬱な部屋。
その床の上に骨と皮ばかりの華奢な体格の男が拘束衣を着せられ、
身動きが取れない状態ながら必死に動こうと
もがきながら転がっていた。口には猿轡をはめられ、
両腕も腹の部分で固定され、両膝、両足首を固定されていた。

「話はできるのかい?」オレは看護婦に聞くと、太った体を仰け反らせ、左右に揺らせた。
「とんでもない。猿轡を外した途端咬みつかれますよ。
首筋を咬みつかれて全治3か月の重傷を負った職員もいます。それに・・。」

看護婦は言葉を濁した。
「それに・・?」オレは追い打ちをかけるように促す言葉を続けた。
医療長が残りを続けた。

「もう言葉を忘れかけているんです。
あまりの幻覚と覚醒による粗暴さにより、先ほども話に出ましたが猿轡さえ外せない。
食事は液体にした食料をチューブで流し込むことでしか与えられない。
拘束衣を外せば、壁や床に頭を打ちつけ続けて。
爪で皮膚という皮膚を自分で剥いてしまう。
自分の手首やら太腿に咬みつく。
咬みつくどころではない食いちぎろうとする。
そんな状態です。」

オレは刑事の頃ジャンキーの顛末を見た経験があったが、ここまでではなかった。
少なくともオレが見たジャンキーたちは、自ら抵抗する場面があったはずだが、
この少年にはそれすらなかった。先天的に。
母親の胎内にいたころからのジャンキーということか。
さすがにオレも言葉を失った。

「しかも年頃ですからね。性的な衝動傾向が強くなってきている。」

オレは意味が解らなかった。

「女性職員ばかりでなく男性職員に対しても交わろうとする。」

低い呻き声をあげながら。
床を這うように動き回る少年はオレたちの姿を見上げながら、
性行為を行なうように腰を激しく振っている。
絶望的な現実に一瞬目を閉じたが、オレは慰問ではなく仕事で来ている。

「で、いつまで生きられるんだ?」

オレは出来るだけ感情を押し殺してスーパードライに切り出した。

「既に完全な麻薬中毒患者で、意志として復帰することもあり得ません。
我々の提供している麻薬を止めてしまえば、禁断症状で発狂して
すぐにでも死んでしまうでしょう。」

医療長はオレを超えるドライさで切り返した。

太った看護婦は、その場で涙にくれた。

「毎年、施設に其れなりの寄付金を渡しているんだ、せいぜい長生きさせてやってくれ。」

オレはそのほかの言葉がでなかった。

「あぁ・・オレも仕事で来てるんでね。写真を撮ってくれないか。
彼と一緒に写っていないとな。オレの報酬にかかわるんでね。」

すると看護婦は態度を硬化させた。

「それだけはできません、フラッシュに反応して大暴れします・・」

しかし医療長は観念したような表情で、オレが持っていた小型のデジカメを受け取った。

「仕方ないでしょ。そうでなければこの人が来てくれた証拠もなにもなくなる。」

オレは身を屈めて床で腰を振る少年の横に座った。
医療長がカメラを構えシャッターを押した瞬間。
フラッシュの閃光が部屋を照らした瞬間。
少年はオレの方に体当たりしてきた。
次に壁という壁に床という床に猿轡の奥から
叫びながら体という体を打ちつけ暴れはじめた。
その凄惨な状況を医療長たちは顔色も変えず
オレを廊下に連れ出し、ドアを閉め、部屋の照明を消した。
中からドンドンと体を打ちつけてくる音がする。
すると、それに呼応するように他の部屋からも
ドンドンと激しくドアを叩くような音がする。
悲鳴と怒号と。あらゆる奇声がフロア全体に広がった。
職員たちはしかし冷静過ぎるほど冷静に対応していた。
オレはさすがに腰が引けた。

エレベーターに乗ると医療長はオレを気遣ったのか顔を覗き込んだ。
「大丈夫ですか?」
オレは無言で頷いた。
これはオレの仕事だ。
これを報告すれば仕事は終わりだ。
この状況を報告すれば法外な報酬をゲットして終わりだ。

「それでは妹さんの方に行きましょう。」
医療長は地下のボタンを押した。





 

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