「筋力」




   ”つまり筋肉増強剤というものはホルモンもしくは擬似ホルモン合成薬物即ちステロイドである。
  ということから大量に投与すれば体内のホルモンバランスはたちどころに崩れます。 
  図に示してあるのは蛋白同化ステロイドを短期間に大量に摂取したスポーツ選手の身体に
  現れた副作用を示していますが、下に書かれているように・・。
  高血圧、肝機能障害、顔や背中に現れるニキビ、血栓の形成が早まり、梗塞の発生リスクが高まる・・。
  などなどといったことが云われてますが。精神状態にも影響が出ることがわかってきています。
  躁鬱状態になったり、妄想癖がでたり、偏執的なパラノイア状態になることもあります。
  ステロイド乱用によって攻撃的な性格となり、殺人事件が起きたこともあります。
  これらの薬品の摂取は競技人生を短くするだけでなくその後の人生をも短くしてしまう。
  そのことについて、我々医師は強く警告していかねばならないと私は感じています。”

             横須賀薬科大学 スポーツ健康薬学研究室 横山健一教授 2007.06.25




Schubert - Ave Maria (Opera).


その夜、オレは山の手のヤリ手婆の邸宅を訪ね、仕事を完了した。
坂谷のり子は明け方発の貨物船でマカオに帰るらしい。
その表情は、オレが行なった報告の内容について
涙ひとつ見せることなく気丈と云えば気丈と云えるだろう。
だが熱い涙を流した先日に比べれば随分とあっさりとした表情に見えた。
どうあがいても助からない命であることは、既知であり、
その存在することについての罪に気を揉んでいた。
我が子の命がいつまでもつのか、というよりはあと幾ら金をつぎ込めばいいのか、
といったあたりが気になっている感じがした。

その後現金の受け渡しが行なわれたとき坂谷のり子がコカインを
吸引したときオレはなんともやるせなさを感じた。


結局は演技だったんだな、と。




オレが帰り際に裏口のあたりで黒づくめの男たちが例の筋肉増強剤「筋力」の
箱を若者たちにトラックで移送するのを指示していた。
「コレ、流行ってるんですねぇ」
オレはへらへらと軽口を叩いた。
するとタンタンに車椅子を押されて部屋から出てきたヤリテ婆が濁声を放った。
「ちょいと問題が起きちまってね、倉庫に逆戻りさ。」
「問題?」
「あんた知らないのかい?メジャーリーグの乱闘事件を!」
「いいえ。」
オレはバツが悪そうに答えるとヤリ手婆がタンタンを追い払った。

「あっちの選手がさ、これ飲んで筋肉増強したんだよ、で
ドーピングだのなんだの云われても問題はなかったんだ。
だってそんな成分入っちゃいないんだからさ。
ところが頭の血管の沸点が低くなったのかね、
暴動事件を起こしてしまった。」

「テレビでもやってただろ、さっきまで。単なる乱闘じゃない。血まみれな乱闘さ。」

オレは余計なことを聞いた。
「コレの成分ってなんなんですか?」
するとヤリ手婆は濁声を張り上げた。
「私が知るわけない。私は故郷から買い付けただけだ。
汚染物質の流れていない大陸の岩山に沸く清水なだけさ。」
「ただの水で人間あんなに筋肉が発達するわけないじゃないですか。」
婆は慌て始めた。
「それが中国5千年の歴史が生んだ秘術なのさ!」
得意の文言が飛び出した。
「じゃぁなんで15億人が筋肉隆々じゃないんです?」
婆はオレの顔を覗き込んだ。

「あんたコレをネタに私を強請ろうってんじゃないだろうね!」

黒服の男たちがいつのまにかオレを取り囲んでいた。
右手のポケットの中には拳銃を既に構えているようだ。
勘弁してくれ。ここで殺されたくはない。

「もちろんそんな気ないですよ。
ただ別な案件でこの筋肉増強剤を大量に飲んでいる人がいましてね。
その方が行方知れずで探しているんです。なにかの手掛かりになればと思いましてね。」

オレはそう切り返した。

「いいかい。この筋肉増強剤はね。もとはと云えばただの水なんだ。
だが去年その石清水の上流に隕石が落ちてから水質が変わったらしいんだ。
其れを飲んだ人たちがなぜか筋肉が発達したんだ。」

「それで商売に。」

「さっきアメリカの友人からメールが届いたんだ。

アメリカの厚生省がコレの分析結果を発表したらしい。

そしたら未知の化合物と未知の微生物の卵の粒が入っているというんだよ。」

「未知の微生物?」

「それが体内の脂肪をを喰って、筋肉の発達を促したらしいんだが、その代謝物が
人間の精神に作用して粗暴になるらしい・・」

婆は調子に乗って話し過ぎた、と思ったらしくオレに向かって濁声を張り上げた。


さぁさ、命のあるうちにおうちに帰りな、ぼうや。悪い夢を見たと思って忘れちまいな。


オレは追い出された。








 

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