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Toru Takemitsu, November Steps {Part 1/2}

その日から、ばあちゃんは馬鹿になって寝込んでしまった。
一切の言葉を話さず、ただおぅおぅと呻くだけ。人と目を合わそうともしない。
突然現れた性格のきつい何処のものともしれない老女が家の中を掻き回した挙句
息子が詰られ自殺してしまったのだから。
いや、それだけではなく・・その最後のひと押しを押してしまったのは、とおちゃんの息子の
僕ではなかったのか。なぜ、とおちゃんを殴ってしまったのか。
そう思うと自然と口数も減った。
結局のところ、とおちゃんを殺したのは 僕 ではなかったのか。
陰鬱な想いが頭をもたげさせ、この家には昼だというのに暗く澱んだ空気が立ち込めていた。
その気分を更に悪いものにしたのは、かぁちゃんだった。
かぁちゃんはその日を境に「老女のために」飯を炊き、肴をつくった。
甲斐甲斐しいまでに「老女のために」洗濯し、掃除した。
「老女」はそれを面白がり、かあちゃんに仕事を言いつけた。

ほら、箪笥の上が埃まみれだ!

床が光っていない!

塩味が足りない、作り直せ!

そのたび甲高い声で調子よく「あ~い」と返事を返すかぁちゃん。
なぜそこまで尽くせるのか、と仰天するほどだった。
それはずっとずっと長い間、自分を騙してきたとおちゃんへの復讐のつもりなのか_。
それともかあちゃん独自の処世術なのか。
ともかくその姿には、とても気分を悪くするものがあり、見ていられるものではなかった。
じいちゃんといえばやはりそんな家の中に居られるはずもなく、農具を纏めると
そそくさと畑に行ってしまった。
なぜ僕を一緒に誘い出してくれないのか?
じいちゃんもとおちゃんを結果的に追い込んだのは僕だと、きっと思ってのことだろう。
ひとり納戸に引き篭もっているわけにもいかず、行く場所といえばじいちゃんの畑しかなかった。
畑ではじいちゃんが黙々と畑仕事をしていた。
ひと息ついて汗をぬぐっても僕と視線を合わせようともしてくれない。


昼前となり僕がなにもすることもなくモジモジとしているとじいちゃんは声をかけてくれた。
だがじいちゃんから何も話すこともなく、僕もなにか口幅ったいものを感じた。
じいちゃんは手招きして用水路の方に歩き出した。
用水路脇の小広い空地には例の男の血痕がまだ残っていた。

「ここはよぅ、昔、中元って上村のもんとこの中村のもんとで
用水路を共同でつくったものよ。
上村の中元ってのはあれでたいした男だった。
だが奥村の出のあの女を妾にしたばっかりに・・。」

あの女とは・・あの老女のことであることは語感でわかった。
「森下んちの畑の向こうが・・いまじゃ荒れ放題だが・・
あすこらが中元の畑だったぁに。
だから共同で用水路をこさえたんだ。
中元の親父は兵隊に行ってた時もたいした男だった。
身を挺して仲間を助ける男だった。
だが戦争が終わって、兵隊から帰って、ここに戻ってみてよ。
中元も森下もわしもやることといえば畑作しかなかった。
だからよ、必死に働いた。
そこにあの龍田久子が入り込んできた。
ありゃぁ奥村の出の女で、中元が妾にしたんだ・・.
いやぁそのころもう中年だったがな。
詳しいことは知らんが、暫くすると中元の嫁が馬鹿になっちまった。
ひとりでなにもできなくなっちまった。
で、そのときにあの龍田久子が中元の家に入り込んで
傍から見てもわざとらしいほどに甲斐甲斐しく
馬鹿になった嫁の面倒を見始めたんだ。
そのときに中元の息子夫婦もいたんだがな、母親に手を出させないほど
介護についていた。
いやぁ、森下も言ってたが、ありゃぁ龍田久子が中元の嫁に
一服盛ったんじゃないかと、な。
そういうことをしでかさないとは全く言えない女でな。

息子夫婦にも医者にも診せず中元にもとうとう診せずに、
自分で煎じた薬を飲ませてよ
中元の女房死んじまった。
だが龍田久子はそれを中元の息子夫婦が面倒を見なかったからだ、と騒いで・・
あぁあの調子で捲し立てたんだろうよ。
おまけに色ボケしてた中元も龍田久子の肩を持つ有様で
嫌気がさした息子夫婦は村から逃げ出した。
いまじゃ東京で医者をしてるらしいんだがな。
そのあとが・・中元はアヘン中毒みたいにやせ細っちまって死んじまった。
するとどこかでひっかけた朝鮮人を連れてきて、村の中で嫌がらせを始めた。
上村から降りてきてこの中村でもそれを始めた。
森下とうちにこの用水路の土地は中元のものだったから、返せ、とな。
馬鹿抜かせ、ここは誰の土地でもない。まして中元の土地なんかじゃない。
用水路を皆で作って使っていただけのことだ。
それをなんで中元の土地だと言い張るのか。
仮に中元の土地であったとしてだ。
だがそもそも家族でもなんでもない龍田久子が
なんの権利すらあるわけもなかろう。
朝鮮人の入れ知恵だかなんだかしらんが、
そういう訳のわからんことをするのが龍田久子だ。

森下んちの後家のことは悪く言うない、おまいもいずれわかるだろ、男と女のことだ。
わしもさっき森下んちに顔出したんだがな。あの後家も酷い目にあったらしいが・・
森下もよ・・あの家の床に埋められちまったらしい。
今夜あたりはわしが埋められちまうかもな_。」
そういわれて顔を見られると、とおちゃんの件が胸を締め付けた。
「昔っから奥村の女は気性が荒いとか云われてたがな。そのまんまだ。
もひとつあったな・・。奥村の女についてはな・・」
僕はじいちゃんの顔を覗き込んだ。
「昔、この川の上流に鬼が棲んでいてって話したことがあったっけな・・」
僕は思い起こした。
「鍾乳洞から川が流れているって・・」
じいちゃんは頷いた。
「どういうアレかは知らんが鬼の水だからかなぁ。
奥村の女ぁ、はたちまでに子供を産んで、鬼の血を体の外に出さねぇと
身も心も鬼に変わっちまうって。どんぶらこ沼で他の沢から水が入っているからな
わしらはなんでもないがなぁ。」
僕は生唾を飲み込んだ。
「あの女は鬼なの?」
じいちゃんはなにも言わなかったが、僕にはあの女は鬼そのものに思えた。
「あぁ人の皮を被った鬼だ。鬼は人の心にいるんだ_。」




日暮れ時に家に帰ると龍田久子が甲高い声を張り上げて
かあちゃんの上に馬乗りになっていた。
「よくも私の下着を安物のアイロンで焦がしてくれたね!」
電気アイロンから引き抜き剥き出しにした銅線をかあちゃんに押し付けるたび
かあちゃんはひぃぃぃと叫んでのたうちまわった。
「わるぅございました・・」
かぁちゃんがそう叫ぶと龍田久子は甲高い声で笑った。
まるで話に聞く二百三高地のように高く丸く形作られた髪型が異様さを増していた。


「さぁ、帰ってきたね、裏に片づけるものがあるから片づけてきな!」
龍田久子はいつもの命令調でものを言った。
片づけるものが、ばあちゃんであることはすぐにわかった。
「ババァが粗相したのに、この女が腹立てて、蹴飛ばして殺してしまったんだよ!」
龍田久子は声高らかに話した。
「まったくとんでもない殺人一家だねぇ、ハハハハハ」
じいちゃんは積もり積もった徒労感を隠さなかった。
その表情を見てつけこむように龍田久子はたしなめるように下品に笑った。
「どうしてこういうことになったと思う?
おまえが用水路を中元の土地だと認めてさっさと金を払わなかったからだろ?
変な意地張ってるから、こういうことになるんだよ!」

「おまえは中元と関係ないじゃないか!単なる妾だろうが!」
僕は思わず叫んでいた。

その言葉は龍田久子の逆鱗に触れた。
コンセントをかあちゃんに押し付け叫び悶える姿を見せつけ
「おまいが淫乱な股間からひり出したこの小僧は随分と礼儀を知らないね!
自分のために皆が辛い目にあっているってわかっていないね!
さすがは人殺しの息子だ!
父親を自殺に追い込むようなとんでもない餓鬼だよ!」
すると身悶えながらかあちゃんは「あいすいません、あいすいません」
と言いながら泡を吹いて気を失った。
かぁちゃんの太った尻を蹴飛ばして龍田久子が立ち上がり僕の方に向かってきた。

「わたしはね、中元の家族なんだ、わかるかい?
婚姻届もなにもなくても、あのひとはいったんだよ、それで十分じゃないか!
だからわたしはね、中元の家族なんだよ!」

鶏がらのような老女は捲し立て僕の髪の毛を引っ張り、頬を叩こうとした。
その手を阻んだのはじいちゃんの手だった。
そして龍田久子を土間に放り出した。

「ふざけるなぃ。中元はおまえと遊んだだけさ。
だれがおまいみたいな鶏がらみたいな女を好くものかぃ。
まして奥村生まれの中年女をよ!」

じいちゃんは嘲り笑って見せた。

「誰にも愛されずに、愛することも知らずに行かず後家のまま奥村から出てきたんだろ。
あっちの風習らしいがな・・試し腹すらされてこなかったのか。
いい歳こいて手つかずのままなんだろ」

じいちゃんの声は恐ろしく聞こえた。
そして侮蔑したように笑った。

「畜生め、なんて下品な物言いだい!
わたしを怒らせると、身内のもんを呼び込むからね!」

龍田久子の啖呵にじいちゃんは負けていなかった。

「またどこぞの朝鮮人でも拾ってくるか!このゲスおんなめ!
その程度のことなんだよ、おまいのやることなんぞ。
だれがおまいの家族か!おまいの家族なんかいやしねぇ!
人の家族を羨んで蔑み壊してゆくしか能がない!
おまいのような奴が奥村の<鬼>なんだよ!

すると鶏がらのような老女は奇声を発しながらじいちゃんに飛び掛かり、馬乗りになって
爪を立ててじいちゃんの顔を何度となく引っ掻いた。

「いいかい、おまえらの村ごと滅ぼしてやる、
おまいもガキも森下のインバイも、皆、皆!
手始めにおまいから殺してやる、いちばん惨めな姿で殺してやる!」

じいちゃんは倒れながらも腰刀を抜こうとしたが、
龍田久子の思わぬ力強い猛攻に落としてしまった。


龍田久子はその腰刀を拾い上げると、じいちゃんの上に振り上げた。











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