私はスケッチは木炭で行なうので、
モノトーンな世界をスケッチブックに 描いてゆく。
記憶を保持するために軽く水彩で色を付けることもあるが
ほとんどは木炭だけで、見事な色彩を脳裏に焼き付けながら。

 

 思い出は熟成させると美化していくものである。
精緻なまでのリアリティは、ときに「藝術」を穢してしまう。
逆に醸成し美化してゆくことが無ければ
それは単に写実的な記録の域を出ず
或いはそれは「藝術」ではないのかもしれない。

 

鉄は熱いうちに打て。
というが。まさにそのとおり。
素材を咀嚼するには、新鮮なうちのほうが良いに決まっている。
描くインスピレーションを得たならば。与えられたならば。
すばやくスケッチを行なう。これはこれでたいへん重要なことだ。

 

 だが、ひとつ。
熱が冷めたときに、一段離れたところで、自らの「藝術」について
冷静に向き合うひとときがなくては。
情熱とは、ひとたび離れて。
熟成し醸成されて「藝術」となるのかもしれない。

 

否。
それを伴う技術的な問題も解決せねばならない。
醸成されたイメージを再現できなければ、それは単に妄想。
自らの美意識で高め、描いたイメージを醸成し
再現する技術を以ってして、はじめて「藝術」なのだ。

 

 ゆえに技術には無関心ではいられない。
技巧もさることながら、素材についても、
「藝術」を仕上げるためには
さまざまに研究を重ねなければならない。

 

 大きな作品を描くためには、実験的な小品を数点画くことになるのだが
その必要性のひとつは画材を選ぶためでもある。

 

 薄手のセーターを着込む頃、私は木枠を組み、
大作用のカンバスを準備し始める。
カンバスには活かしたいタッチをそのまま再現できるように
下地剤を塗りこむ。

 

 下地剤ひとつにしても、研究に研究を重ねたもので
市販のものを一部に使うが、オリジナルな素材を調合したものである。
どうしても市販のものは、顔料の伸びが悪く思えて
私の、私個人の繊細なタッチが巧く表現できないでいたのだ。
そこで動物由来の成分を調合することで油絵の具との
親和性を得ることが出来た。

 

 表現のためには手段は選ぶことはしない。
色鉛筆、パステル、水彩、アクリル・・思いつくものを試した。
実際の紅葉したモミジをピグメントとして磨り潰してみたこともあるが
なかなか私の意図する色彩は再現できなかった。
そこで新たなるピグメント・・つまり顔料について研究をする
必要に迫られる。

 

 そぅ、まるで胆汁のような黄色い色でなければならないし
かえでの赤は黒味を帯びた動脈を伝う粘着質が無ければならないし
もみじの赤は処女の生血のような、鮮血のような赤でなければならない。
そんな風に気がついたのは昨年の秋のこと。
まるで何かの啓示を受けたように、いや実際に啓示があったのだ。

 

 しかし、最初からは巧くいかないものだ。
顔料の調達には最初、戸惑いが無かったとは云い難かったが。
だが。
実はこの湖畔には、晩秋ともなれば迷える顔料の素が_。
こちらから出向かずとも寄ってくる。


       


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