#4

   


 

部屋に戻ると窓に向いたカウチから岩礁がうっすらと見えた。

そして向かいのアパートメントの窓に、例の老人が見えた。

熱いシャワーを浴び、ラフな格好になると、

夕食を食べに一階の小さなダイナーのような食堂に行くと

女将が作ってくれた御当地料理なのだろうか、魚料理が出てきた。

見た目は正直辛い感じもするが、その味はなんとも絶品だった。

夕暮れを迎え、急に冷えた風が吹き込んだが、女将のシチューのお蔭で

寒さを余り感じずに済んだ。

少々、地のワインを煽り、ほろ酔い加減で、ホテルのロビーの脇においてある

古めかしいピアノが置いてあり、悪戯半分で鳴らしてみた。

どうも先程の不思議な老人の奏でるバンドネオンの調べが頭の中をよぎる。

魅力的というわけではないし、正直に言えばどこか不気味さすら覚えるような

単音としての音符の羅列を、頭の中で思い出しながら、頭の中に残る

音のイメージを探し出してみる。

あまりのヘタクソさ加減にホテルのカウンターにいた若い黒髪の女性が苦笑する。

「あぁ、あのお爺さんの曲ね?」

「あぁ・・そのつもりなんだけど、ここの土地の曲なのかい?」

「パオラ」という名札をつけた黒髪の美女は微笑んだ。

「どうなのかしら?わたしたちもあのお爺さんが弾いているから

聞き覚えているだけ。だって、昔からその曲しか弾かないもの、あのお爺さん。」

「なんかへんな曲だよね?」

思わずふたりで見詰め合って、大笑いしてしまった。

ふたりで笑っていると女将がやってきて、バンドネオンとビオラの流しを

店に呼び込んだ。「せっかくここまでやってきてくれたんだからねぇ。」

寸胴で豪快な女将は客達を前にバイオリンを手に取りタンゴを演奏して見せた。

なんとも想像もし得なかったサービスに客たちは拍手喝采。

二曲目に入ると女将は言い放った。

「タンゴは聞く音楽じゃないんだよ!さぁ皆、踊りなさいな!」

客たちは尻込みしながらも、立ち上がり、リズムをとりはじめて。

私は、パオラに誘われるがまま、タンゴを踊り始めた。

踊り始めると、なかなかこれがハードなもので。

しかし刻まれるリズムに慣れるに従い、その情熱的というのか

むしろ官能的ともいえる濃厚で緊密なひとときを

パオラに促されるままに。

チャッ,チャッ,チャッ,チャッ♪

チャッ,チャッ,チャッ,チャッ♪

チャッ,チャッ,チャッ,チャッ♪

チャッ,チャッ,チャッ,チャッ♪

単調だが切れのよいリズムが

黒髪のパオラの魅力を倍増させ

恋とも云えない淡い感情に火をつけ

所詮人間も動物、そして男と女。

チャッ,チャッ,チャッ,チャッ♪

チャッ,チャッ,チャッ,チャッ♪

チャッ,チャッ,チャッ,チャッ♪

チャッ,チャッ,チャッ,チャッ♪

揺れる黒髪と漆黒の深くて熱い瞳

この濃密な一瞬一瞬を

生涯忘れえぬこのひとときを

恋は盲目。この先のことなど。

チャチャッチャ,チャッチャッ♪

チャチャッチャ,チャッチャッ♪

チャチャッチャ,チャッチャッ♪

チャチャッチャ,チャッチャッ♪

曲が終わると余りに接近した私とパオラは互いに

タンゴの虜になっていた。

やがて休憩時間となり、パオラはカウンターに戻っていった。

彼女の残り香に名残惜しさを感じながら頭の中にはあの旋律が流れていた。

ひょっとしたら、地の音楽ならタンゴのリズムに合うのではないか?

純粋で、自分では至極当然な仮説で、先程のピアノで悪戯した。

チャチャッチャ,チャッチャッ♪

チャチャッチャ,チャッチャッ♪

チャチャッチャ,チャッチャッ♪

チャチャッチャ,チャッチャッ♪

頭の中でカウントをとり、あの旋律を載せてみる。

すると、不思議なもので、どこになにが足りないのか?

が・・分かりかけた瞬間だった。

流しのバンドネオン奏者が怪訝な顔をして私の手を

ピアノの鍵盤から離すように促して押しのけた。

「なんて禍々しい曲を弾くんだ!」

周囲の眼は私に注がれていた。

不穏な空気のなか、私は自分の部屋に戻るしかなかった。










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