おとこたちは蝙蝠谷に分け入り二日が経った。


明日の夕方には猟の成果はほぼ例年並みだが、大物らしい大物はまだない。


おとこたちは二手に分かれ、仕留めた獲物を下ろす組とさらに山奥に入り


大物を仕留める組とに分かれた。


正蔵は六蔵と伊助を連れ蝙蝠谷の奥に踏み入れた。


急な岩場の崩れたガレ場を迂回して針葉樹の森に入る。


いきなりそこで目に飛び込んできたのは白樺の木につけられたクマの爪痕。


かなりの大きさであることは明白だった。


しかも木の皮がまだ乾ききっていないので近くに潜んでいるのかもしれない。





風向きが変わり正蔵はクマの気配を感じ、六蔵と伊助に体制を低くするように指示して


白樺林を進むとちょうど目の前にクマがいた。


しかもツキノワグマ。この山地で最強のクマだ。


しかも成熟した大人のツキノワグマ、身の丈も4尺はありそうで。


脂ののった肉が多そうで。


毛皮も大きいのが取れそうだ。


これなら熊の胆もおおきかろう。





これで部落も豊かに冬を越せる。


それより、“おかぁ”に、むすめの“さゆり”に、

そして“さと”に。

 たっぷり食わしてやれる。


暖かな毛皮を着せてやれる。


そんなことを思い出しながら。





一発弾のカートリッジを取り出し、込める、込める。


クマの皮はとても厚い。


しかもその下についている肉も鉄板のように硬い。


だから散弾では非力だ。


しかも皮膚の厚い部分では一発弾でも駄目だ。





以前部落を襲ったツキノワを退治するため

手前から走っていくクマのケツを撃ったが、走るのを辞めることは

なかった。

 向こう側から走ってくるクマの喉元を狙って一発弾を食らわして

態勢を崩したクマのやはり喉元に更に一発弾を撃った。

 正蔵の目の前でようやく倒れた。


間一髪だった。


血の気が失せた。


クマの爪がすぐそこにまで迫っていたのだから。





その後、倒れたクマのケツを見れば、弾は命中していた。


だが、皮膚に食い込んだだけでその下の硬い肉は弾を通さなかった。


やわらかいところを狙うしかない。


できれば一発で。





同じ山で暮らしているもの同士。


出合わなければそれまでのこと。


だが互いに生けとし生きるものとして、殺し合わなければならないのなら


ひとおもいに苦しませずに仕留めてやるのが相手に対する礼儀だ。





ツキノワは蜂の巣を壊し、蜂蜜を舐めているようで


あたりには蜂が混乱して飛んでいた。


蜂を追い払うように立ち上がった瞬間。


ツキノワが天を仰ぎ喉を伸ばしきった瞬間。


引き金を引くと、爆裂音は谷に山にこだました。





ツキノワの巨体が地面に突っ伏しまだもがいている。


正蔵は立ち上がって、至近距離からツキノワの喉元に一発弾を撃ち込み


仕留めた。





「やったな、正蔵さん」伊助が正蔵を褒め称えながら近寄ってきた。


「これで正月がこせるワイ」


六蔵がひょこひょこと歩いてきた。


「しっかし、うまく仕留めたのぉ」


風向きが変わり、さらに叢が大きく揺れて、伊助の背後に5尺は

ありそうなツキノワグマが立ち上がって、激しい怒りを表すよう

に大声で吠えた。



伊助はそのまま突き飛ばされ、大クマは正蔵に目掛けて突進し

てきた。


正蔵は銃を構える間もなく・・構えても弾が装填されていない

のだから。


一目散に走って逃げた。


だがクマの足ははやい。


木に登ればそこで退路は無くなる。


走るしかない。


だがクマの足ははやい。


走りながらカートリッジを交換して・・。


走りながらカートリッジを装填して・・。


走りながら・・・どこへ?


だがクマの足ははやい。


もう追いつかれそうだ。


いや断崖絶壁が目の前に迫っている。





いましかない。





正蔵は振り向くとすぐ後ろに迫った大クマ目掛けて一発弾を見舞った。


その瞬間、慣性のついた巨体に弾き飛ばされ、白樺の木に叩き付けられた。


悲鳴とも怒号ともつかない咆哮をあげながら、大クマの巨体が絶壁に


落ちていく。





心臓が激しく動いている状態がしばらく続いた。


呼吸がはやくて止まらなかった。


体内にある燃えるものがすべて一気に燃焼してしまった。


全身の毛が抜け落ちるのではないかと思えるほどの疲労感。


それから白樺の木に打ちつけた痛みがジンジンと感じられた。





声が出たのはそれからで、出た言葉は「助かった・・。」





六蔵がひょこひょこ歩きながらやってきた。


「おぅ、生きてたか!どうしたクマは・・?」


正蔵は全身に広がった痛みを堪えて口を開く。


「一発ぶち込んで、そこの絶壁から落ちた。」


六蔵は崖を見ると底が見えないほどの絶壁で。


ここから落ちたのなら・・六蔵は目を移す。


「だいじょうぶか?」


「あぁ・・伊助は?」


「あぁ、だいじょうぶだ、あっちで休んでる。ところでな・・」


六蔵は正蔵の顔の間近まで顔を寄せてきた。





「ちゃんと仕留めたのか?」





正蔵は唖然とした。


無我夢中で 走り、無我夢中で引き金を引いた。


そのあとの瞬間、瞬間を思い出してみる。


放たれた銃弾は至近距離から大クマの顔面近くを走ったはずだ。


「あぁ・・もちろんだ。」


六蔵はふたたび深く切り立った崖を覗き込んで


ふたたび正蔵に目をうつす。


「まぁここから落ちたら助かるわけはないよな。」


あまりに深く切れ落ちた崖の底はみえない。







     
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