その夜、さすがに疲れているのですぐに眠れた、はずだった。


だが正蔵は深く寝込んだのだが、目が覚めてもまだ真夜中だった。


いや、実のところまったくは眠れてはいない。


むしろ恐怖のあまりびくついて眠れはしないのだ。





見張りに立っていた伊助がいうには、死んだように寝ていた、

らしいのだが。



思い出されるのは、クマに追われて、振り返りざまに

一発撃った。


その瞬間のことだ。弾道はどう走っていったのか。

至近距離であったから、当たったにはちがいない。


だが。


あれだけの大きなクマに一撃で致命傷を与えられたのだろうか。

“「ちゃんと仕留めたのか?」”


六蔵の言葉が突き刺さる。


深呼吸してもう一度思い返してみる。





“だがクマの足ははやい。”


“もう追いつかれそうだ。”


“いや断崖絶壁が目の前に迫っている。”





“いましかない。”





“正蔵は振り向くとすぐ後ろに迫った大クマ目掛けて一発弾を

見舞った。”


正蔵のすぐ後ろにいた大クマのできるだけ下の部分を狙った。


大クマの足を遅らせるために。


だがそこにあったのは、大クマの顔面ですぐに正蔵に噛みつこう

としていた。


正蔵の発射した弾丸は・・大クマの恐らくは目を直撃し・・・





なんてことだ・・。


いちばんしてはいけないことを・・。





夏の終わりだというのに、正蔵は全身を冷や汗に塗れていた。


穏やかになれない気持ちを落ち着かせようとするができない。


落ち着くのだ、冷静になるのだ、正蔵は自分にそう言い聞かせるが。


目を閉じて、なんども「掟」を暗誦する。





“同じ山で暮らしているもの同士。


“出合わなければそれまでのこと。


“だが互いに生けとし生きるものとして、殺し合わなければならないのなら


“ひとおもいに苦しませずに仕留めてやるのが相手に対する礼儀だ。





なんども、なんども「掟」を暗誦してみる。


だが、「掟」には後段がある。





“それが出来なかった場合。


“手負いの獣は最強最悪の敵となる。


“執念深く、執拗に、襲ってくるだろう。





ましてあれは家族を奪われた親なのだろう。


そしてまかり間違って人間の味を知ってしまったら。





正蔵は震えがきた。


だが大クマはあの崖から落ちたら、生きてはいられないだろう。


そうさ、生きていられるはずはない。





考えあぐねていると、伊助が声をかけてきた。


「しかし正蔵さんは凄いなぁ、ツキノワを二匹始末したんだからよ。」


正蔵は無理矢理顔の筋肉を意識的に動かして微笑み返した。





“やまいり”の最後の日、おとこたちは夕暮れに山を下りた。


正蔵は“おかぁ”と娘たちと山間の小さな畑であった。


おとこたちは重い猟の成果を運びながらもその足取りは軽くなっていった。


川の音がして滝が近づき、事態は一変した。


部落の小屋という小屋が破壊されていて、部落に残っていた


おんなこどもたちが泣いていた。


滝に近い伊助の小屋はいちばん無残に壊されていた。


伊助の両親はをひをひと泣いていた。


巨大なツキノワグマが突然襲ってきたという。


伊助は女房の死体と対面し、泣き崩れた。


そして娘のさゆきが、食われた、と聞かされ気が動転して


正蔵に食って掛かってきた。


「正蔵さん、あんた、本当にでかいツキノワ・・始末したんか?




正蔵は言葉に詰まった。


まさか・・ヤツが生きていたのか?!


「正蔵さん、あんた、手負いの獣を作ってしまったよ、これからヤツは・・」


詰め寄る伊助と当惑する正蔵との間にひょこひょこと歩いて

六蔵が割って入る。



「伊助、正蔵さんは間違いなくヤツを殺している。

それは俺も見ていたから、間違いないさ。

襲ってきたのは別なヤツだ。

だが、ヒトの味を知ったからには気をつけなきゃぁ、な。」


六蔵がしたり顔をしてひょこひょこと歩いて行った。





終わり







     
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