街道は車が数台行き交っていたが、馬車や牛車が近づくと運転手は
臭いがつくのを嫌ったのか汚れるのを恐れたか大きく回りこんで
追い抜いていった。
混雑したのは駅前の広場のあたりだけで車は颯爽と風のように街道を
走り抜けていった。
やがて西へと延びる一等国道に入り、農村の風景に変わっていった。
さらになだらかな丘陵地帯をいくつか越えると高い山々が見えてきた。
晴天の下、自動車でドライヴとは学生の分際では贅の極みだが
実際のところひとり旅に近い寂しさがあった。

ぼくは父である佐佐木原清人男爵に会ったことは無い。
だが著書「露西亜民間医薬図解」などに載った「著者近景」との写真で
その顔を見ることができた。
“特徴的に”というよりは“病的に“という形容詞があうほどに
面長な顔・・会ったことは無いとはいえ、さすがに馬面とは言えん。
車内で、ふふふと小声で笑いながら「露西亜民間医薬図解」を開いて
斜めに読んでいた。
元軍人にして、医者、とりわけ薬学の分野で博士号を持ち、一大財閥をなした
企業家・・書面ではあったが、ぼくに医学の分野を勧めたのも佐佐木原清人である。
深い谷にかかる橋を渡ったところで車が止まり、運転手が後部座席のぼくのほうに
振り返り「いよいよ山道にさしかかりますので、休憩しましょう」と言ってきた。
あぁもうすでに3時間ほど車に乗って揺られていたので、体が固まりかけていたところだ。
きちんとした身なりの蝶ネクタイをつけ、ケピ帽を被った日焼けした30前の男が
続けて言った言葉が、妙に苛立たせた。
「おぼっちゃま。」
悪意の無いことばであったが、なにか小馬鹿にされた感じがしたのだ。


ぼくはドアを開けられ外に出ると、大きく伸びをすると、谷川のひんやりとした空気が
喉をとおり胸に流れ込んできた。
「おつかれでございましょう」
運転手は車の座席に銀のポットと自家製らしいクッキーを数枚のせた盆を用意し
ティーカップに紅茶を注いでくれた。
「ありがとうございます。」と云うと、軽く会釈をすると車のボンネットを開け
整備を始めた。
山々が迫り厚い雲が空を覆い始めていた。
バタン!と大きな音がしてボンネットが閉められ
ガソリンの給油を終えたようだ。
「おぼっちゃま、この先は急な坂が続きますうえ天気が悪くなっていますので
よろしければ出発したいのですが・・。」
紅茶を飲み干すとぼくは運転手の指示通り再び後部座席に座り、ドアを閉められた。
エンジンがかかり、車が走り出すとすぐに道幅が狭くなり荒れた道に変わった。
「太平洋から入ってきた雲がこの山脈にぶつかって、このあたりは雨が多いんです。
しかもこの奥の湖のあたりは雷で有名なところでして・・。」
運転手はハンドルを握りながらつぶやくように云う。
云った途端大粒の雨が窓ガラスに激しくぶつかってきた。
灰色の雲が勢いよく山肌に向かっていくのが見える。
と、同時に道が急勾配にさしかかり、背もたれに押し付けられた。

くねくねと切り立った崖を縫うように走り、やがて針葉樹林帯を
走りぬけ白樺の鮮やかな緑色の林に囲まれた湖畔を走りすると
高台に豪奢な洋館が目に入った。
「あれが佐佐木原男爵の山荘です。」
そこに雷鳴が轟き、稲妻が走った。
あまりの大きな音に驚いてしまった。
自動車は洋館の門に入り、庭園を貫く長い長い舗装された道を進んでゆく。
更に暗澹たる雲が張り出し雨脚が更に強まった頃、自動車は屋根つきの車止めに
横付けされた。
駐車場には自動車が何台も停められていた。
こんな台数の自動車を見たこともないほどに。
メイド服を着た女性にドアを開けられ降り立つと、奥から老紳士然とした執事が現れた。
「ようこそ、一郎おぼっちゃま。長旅、ご苦労様でございます。」
と云うと深々と頭を下げた。
ぼくは少々気後れしながら、返事をしたが雷鳴にさえぎられた。
「はじめまし…(ゴロゴ)…ぼく…(ドーンゴロピシャッ)一郎です」
もういちど言い直そうとしたが、吹き付ける雨が酷くなり
この老執事は耳が不自由なのか・・ぼくの言葉を聞こうともせずに重そうなドアの向こう
つまり佐佐木原清人男爵の洋館の中を指差した。












       
       

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