翌朝気がつくと、ぼくは天蓋つきのふかふかのベッドの上で目覚めた。
昨夜の荒天が信じられないほどの明るい日差しが窓から差し込んでいた。
若いメイドさんが笑顔でミルクをたっぷりと入れた紅茶と小さな甘い焼き菓子を
小さな皿に載せて持ってきてくれた。
あまりに寝坊したらしく朝食は部屋で取ることになった。
フレンチトーストという厚切りの食パンを甘く焼いたものを食すが、
これがあまりに美味しく気分がよくなった。

あまりの天気のよさに庭園を歩いていると、男爵の賓客たちが西洋風の東屋ガゼボの下で
チェスに興じていた。ぼくはその横を通りかかると会釈すると、会釈を返してきた。
その先にはきちんと整理された植物園の奥にはガラス窓で作られた温室があった。
そのものめずらしさから近づいてみると、中に佐佐木原清人男爵がいるのが見えた。
昨夜の無礼な振舞を詫びなければと思い、温室の中に入った。

「男爵、昨夜は申し訳ございませんでした。」
ぼくは頭を深々と下げて謝罪の意を表わしたが、男爵は気にも留めないようで
甲高い声で笑った。
「昨夜のワインはホームラベルでね。豊穣な味わいが特徴的なので呑みやすかっただろ?」
温室の中はやはり植物に覆われていた。花や植物にはとんと疎いのだがある一角の植物に注意が向いた。
毒々しい赤い花を着けているのはケシの一種ではないか。
「気になったかね?医学生なら当然だ。西比利亜原産のPapaver braceatum。
あぁハカマオニゲシだよ。製薬の研究のためこの温室で育てているんだ。
テバインを生成している。え?いやぃゃ勿論お国の許可は得ているさ。」
男爵は踵を返し、思い出したように「ときに、一郎くん。」
「きみは大学で大変よく勉強していることは、学部長らから聴き及んでいるんだが。
医学を目指したもの同士として、どうだ、学問の究極の目的とは?考えてみたことは無いか?」
ぼくはあまりに唐突な話の展開に、おずおずと煮え切らない態度をとった。
それが気に入らなかったのか、それとも、そうでなかったのか。



男爵は目を細めて嗜めるようにぼくに云った。
「まぁ難しく考えることはない。医学でも文学でもそうだがサイエンス、つまり科学するということの
根源的な目的とはなにか?」
相変わらず呆気にとられているぼくは、あまりの哲学的な言葉が次々に叩きつけられ
自分では何を言っているのか、半分判らなくなっていたのかもしれない_。
「科学の根源的な目的は、人間、いやそのより良き人生についての探求の礎と考えます。」
男爵は口を縦に開け、呆気にとられたようだ。
暫くの間そのまま時が過ぎて、男爵は甲高い声で笑った。
「こいつぁ傑作だ。その答えが正しいかどうか・・それはさておき。
その答えは、我輩がキミ時分のときに、やはり先輩に問われたときに応えた返答と
まったく同じだよ。」
作業用のパイプいすに腰掛けて男爵は続ける。
「世の中には科学を自然科学だの人文科学だのと分けて考えたがる者も多いが
科学することの目的においてはそれらはツール・・つまり道具に過ぎず、しかし手段でもある。
例えば生物のひとつである人間の体を切開し手術を行なうにしても、勿論法律についての知識も必要だし
痛みについて患者に尋ねるには多分に文学の素養が必要だ。
大きく捉えるならば、キミの云った答え、つまりは我輩の最初の答えは・・。
あながち間違ってはいない。
だが。」

ガラス張りの温室の天井・・空を見上げると言葉を選ぶように慎重に話した。

「あるとき人間の人生はもっと快活で能動的であるべきだと気がついたのだ。
日露戦争で体験したこの世の地獄を。我輩が見た地獄の惨状を克服するには何をなすべきか、と。
帝に忠誠を誓い国家のために戦った、とはいっても人を殺してのことだ。
殺戮をしないで済むようなステージにまで万物の霊長たる人間は登り詰めねばならぬ。
我輩はそう考えることにしたのだ。そのために我輩は兵役を去り、
当時不足していた薬を大量に作るべく製薬会社を立ち上げた。
無論事業は成功した。なぜなら不足していた薬を作ったからだ。
だがそれだけでは駄目なのだ。人間自身が次のステップに登らねば。
そのために我輩は私財を投じても構わない。新たなステップへと進化せねば・・」

学生であるぼくよりも、遥かに理想化肌の男爵の目は輝いていた。
あまりに気宇壮大な理想論を語られ面食らっているぼくのほうを振り返ると
男爵は目に涙をためて見つめる。

「しかしだな。不条理なものだ。息子のキミにしか言うことはできないのだが。
我輩には残された時間は少ない。人類が新たなステップを登るのを見届けねば。
その思いと裏腹に、時とは残酷なものだ。だから、キミに全てを託したい。
我輩の蓄えた知識、経験、財産そして哲学を。その一端を今日明日をかけて学ぶがいい。
そして結婚に備えなさい。キミの結婚こそが新たなステップへの第一歩となるはずだ。」

ぼくは呆然と立ち尽くしていた。

「あぁキミの心配も勿論だ。
花嫁にあったことも無いのに嫁を決められたと思っているに違いない。」

やっとぼくのいちばん聞きたいことに話題が及んだ。

「惠梨香さん・・というお名前だとお聞きしました・・。」

男爵はケシの花の香りを深く吸い込むとにこやかに笑った。

「あぁ、惠梨香はね、可哀想な娘でね。
我輩とは戦時中ずっと同じ部隊にいた大河内大佐の娘さんでね。
大河内大佐は旅順で敵の砲撃にあい戦死してしまったのだ。
戦後になって我輩は大佐の家族を陰ながら支えてきたのだ。
だが、奥さんはスペイン風邪で亡くなられてしまった。
残された惠梨香の引き取り手は無く、私が引き取ったのだ。
屋敷の裏に離を作って、そこに住まわせておる。
とてもよい子なんだがな。そんなことがあったんでナーバスな面があってな。
しかしキミとの結婚について、とても喜んでおる。」



ぼくは口を開こうとしたのだが、それを遮るように・・
「あぁ結婚についてだな。
結婚にまず一番大事なのはザニマーッツァ リュボーヴィユだ。
愛情を深め、しかし確かめ合うにはおこないが不可欠なのだから。
それについては我輩も権威ではあるが、良き伴侶とはめぐり合いたいものだ。
伴侶にも向き不向きがあってうまくいかない場合。それは大変不幸なことだ。
我輩も苦労したが、キミの母上にめぐり合うことが出来て、それをかなうことが出来た。
だが、キミはその点たいへんに恵まれているといえよう。
惠梨香はおそらくは最高のザニマーッツァ リュボーヴィユのサピェールニク パルトニョール・・
つまり良きパートナーとなるだろう。それは我輩が保証する。」

男爵は腕時計を眺めて鼻をならした。

「あぁ昼飯の準備が出来たころだ。行こう。」

ふたりで庭園を歩いている間中、男爵は人類の進化について熱っぽく語った。
そして昼食を取りながら云った。
「そうだ。結婚式を控えて落ち着かないキミに宿題をだそう。
ひとつは「ツァラトゥストラはかく語りき」を読みたまえ。
もうひとつは結婚式の披露宴で皆様の前で行なうスピーチを考えておきたまえ。」
その午後、フリードリヒ・ニーチェの「ツァラトゥストラはかく語りき」の 原語版を
手渡されぼくは部屋に篭った。
ゾロアスター教の教祖であるツァラトゥストラの言葉のひとつひとつに、
男爵の思いを考えるにつけ、私個人などつまらないものに囚われず大局に立ち
人間の、いや人間性というべきか。更なる高見に立つには。より神に近い存在になるということなのか。
神は死んだ、としたニーチェもといツァラトゥストラは
人間を超えた存在、つまり「超人」こそが、至高の存在としたのか。



ぼくの頭は哲学的で観念的な命題に刺激され今まで使ったことがないような速さで考察した。
それは時を忘れさせた。
しかし夕食後になると、睡魔が襲ってきて独逸語の文字が揺れて見えた。
すると昨夜の出来事が思い出された。
私の部屋に侵入した何者か_のことが思い出された。
ぼくはいったい何を見たのか?
哲学書の影響もあるのだろうか、余計なことまで考えた。
果たしてそこに本当に存在したのか?
何かを見たのは間違いない。
鮮烈に脳裏に、網膜に焼きついている。
それがいったい何なのか?
影と閃光の入り混じる明滅する中で見たのだからそれが何だったのかは判らない。
いや、人のような目をしていた。
怯えたような、物悲しさを湛えた、視線に力の篭った眼だった。
首が長く面長な顔、髪の毛を束ねていたのだろうか、
たくしあげた髪の毛は俊敏な動きの邪魔をしないようにするための配慮なのか。

残念ながら豊かとはいえない胸の膨らみは、しかし鍛えられた腹筋の締まりかたは
体躯に女性的な曲線を与えていた。まるで少女のような色鮮やかな若々しい乳房の色が・・・。

ぼくは自らの破廉恥な発想に落胆した。
しかし昨夜私が見たのは、女性的な曲線を持つ体・・全裸の裸婦・・。
ぼくは異常な程の性欲を持ち合わせてしまったのだろうか。
“性欲”・・この歳になるまで持ち合わせていないとはいわないが
それは人間を怠惰に貶める愚行であるという認識に揺るぎが無かったが
ぼくが見たのは性的な妄想・・廻り始めた思考が・・ひとつの可能性を指し示した。
「香」
あの甘酸っぱさを湛えたような「香」の香りがこの部屋を満たしていた。
あれはいったいなんの・・あぁ、あの温室で育てられた禁制品の
ハカマオニゲシから抽出されたオピウム、つまりアヘンの成分を持った物質由来のものであったとしたら。
アヘンのもたらす催淫作用が猥らな妄想を引き起こしたのか。
しかし妄想を引き起こす程、ぼくの潜在的な部分では忌まわしいほどの性欲が頭を擡げているのだろうか。
いや、もう一度考え直してみろ。
本当にこの部屋に、野性味溢れる裸婦がいたとしたら_。

いったい誰だったんだ。

まるで野生児のように、まるで野の獣のようにぼくを見つめた眼をもつ狼少女のような。
その姿を思い起こし、想像するだに、ぼくは陰茎に血流が流れ込み
勃起するのを感じた。なんとあさましい体になってしまったのだ。
一時の欲情に駆られ人生を棒に振った話など武士の時代、公家の時代より枚挙にいとまが無い。
せめて自分こそはそんな劣情に溺れるようなことがないように。
しかし、我が存在は、父母の劣情によって生まれたのは間違いなく、人間なら夫婦の契りを結び
子をなすことが、生物としてのヒトの自然の姿であり、国家を繁栄に導く礎でもある。


だが、ぼくは今はまだ理性的に振舞わねばならないのに。








     
       

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