山荘といわれる洋館の中は赤い絨毯が敷かれていた。
広いエントランスホールの奥はダイニングホール。
エントランスホールの両側から階段が二階、三階へと繋がっている。
ぼくはメイドさんに導かれるまま階段を昇ってゆき西側の奥の部屋に入っていった。
窓の大きな広い部屋で、晴れていれば明るいのだろうがあいにくの空模様のため
部屋の中まで暗くなっていた。
メイドさんは鯨油を継ぎ足し、ランプに火を燈す。
すると装飾過多だが掃除の行き届いた綺麗な室内が浮かび上がる。
マホガニーのテーブルといす。大きな天蓋つきのベッド。
壁には佐佐木原清人が眼にした光景なのだろうか西比利亜の雪に覆われた山脈の
油絵が飾られている。雪と氷に閉ざされた荒涼とした山脈。
あまりの迫力に眼を奪われていると、メイドさんがぼくの顔を覗き込んだ。
「夕刻6時にお夕食となりますので、それまでご自由にされてくださいませ。」
こんな天気だから暗いのだが壁の時計はまだ4時を過ぎたばかりだ。
「よろしければ、母に会いたいのですが。あぁ、あと男爵にも・・。」
メイドさんは一歩後ずさると軽く会釈をして微笑む。
「男爵様はお仲間たちと猟に出られております。
おぼっちゃまに是非ジビエをご馳走したいとのことで・・。」
メイドさんまで「おぼっちゃま」と呼ぶのには閉口した。
それに感ずいたのかメイドさんは
「奥様は奥の間におられます、お着替えが済まれましたら呼び鈴でおよびください。
ご案内いたします。」
そう云うとメイドさんはそそくさと部屋を出て行った。



ぼくは今の状況がつかみきれてはいない。
学生服でこの場に来てよかったものか。
学生服以外のものを持ってもいないのだが、あまりに不相応なイデタチではなかったか。
しかし、これしかないのだから。
呼び鈴を鳴らすと先程のメイドさんがやってきた。
「母に会いたいのですが・・」

するとメイドさんは母の居る奥の間に案内してくれた。
なんとも複雑な建物で、増築に増築を重ねたのだろうか。
角を曲がっては折れる回廊を歩いているようで、メイドさんの案内なしには歩けない。
そう思わせた。
奥の間はこの洋館のなかでは珍しい畳の敷いてある日本間で、ぼくはホッとした。
見覚えのある後姿に急に郷愁を感じてしまい、声を上ずらせてしまった。
「おかあさん・・」
母は振り向くと、嬉しそうに微笑みかけた。
和服姿の母親の姿は、高価な豪華な着物以外は以前と変わりなかったが、
離れて暮らして既に8年が経っていた。
母の頭には白いものが混じっていた。
「一郎。」
母は優しくぼくを抱いてくれた。
「元気だったかい?」
ぼくの頬をあたたかい涙がこみ上げたて、しゃくりあげながら、ぼくはうなづいた。

ここに嫁いで母は、それまで無学であったが佐佐木原清人の手伝いをしながら
多くの書物・・その多くは露西亜語のものであったり独逸語のものであったらしいのだが・・
を読み下し、はたまた男爵に懇切丁寧に教え込まれ多くの医学的な知識と技術を得たらしい。
確かに苦労も多かったが、いまでは新しい自分の存在に満足しているという。
話せば話すほどに昔の母の面影はなく、学生であるぼくより独逸語に堪能な母など・・
医学生であるぼくより病理学の話題に明るい母など・・
なにか別な次元の人間になってしまったのか・・と思わずにいられなくなった。
だから・・。話すことなど・・実は・・何もなくなってしまった。


だが話さねばならない。
「ぼくは誰と結婚するのですか・・?」
母が目を細めて微笑む姿が、ぼくは怖さすら感じた。
「とても素晴らしい女性よ。」
それ以上、話を待っても進むことはなかった。
「あの・・先方のご家族は了解されているのですか・・?」
「あぁ、惠梨香さんは・・ご家族がいないのよ。
佐佐木原が身寄りの無い彼女を、類稀な才能と美貌を見込んで
この屋敷の裏の離れに住まわせて援助してきたの・・。」
「それではまるでぼくと同じですね。場所の違いはありますが。」
母は見つからなかった言葉をぼくの言葉の中に見出したように安堵した表情を浮かべた。
「そ、そうね。あなたと同じ。佐佐木原は篤志家なのでね。」
「おかあさんはその惠梨香さんに会ったことがあるのですか?」
「も、勿論、あるわ。とてもとても素晴らしい女性よ。」
どもる母のイメージが無かったので、かえってぼくが詰問しているような感じになってしまった。
そのことを詫びるように会釈しながら更に尋ねてみる。
「その・・惠梨香さんに会えますか?」
「も、勿論よ・・。」
少しの間があって母は今度は慌てて前言を撤回した。
「でもね、でもね・・今日は会えないの。」
「どうかされたのですか?」
「ううん、あなたとの結婚式をとても楽しみにしているのよ。」
え?
「楽しみにしているのよ、とにかく、楽しみにしてるわ。だけどね
女には女でないとわからないのよ。ほら一生の問題でしょ、結婚式となれば。
とてもね、不安になるのよ。だから、だからね。
結婚式の日まで会わないでいてあげてちょうだい。」
なんだ母のうろたえぶりは。
と気になったが、清々しさを感じさせる呼び鈴が何度も鳴らされて
使用人たちが廊下を慌てて走っていくのが判る。
先程のメイドさんが、奥の間に入ってきて告げた。
「男爵さまのお帰りです。」
すると母は、表情を強張らせてぼくに言う。
「さぁ、男爵のお出迎えをしましょ。」
そういうと廊下を足早に歩き出した。ぼくは・・着いていくしかない。
いったい何名の使用人がいるのだろう。
メイドさんたち、料理人、執事たち・・。
さまざまな格好の人たちが足早に廊下を走ってゆく。
玄関で出迎えてくれた執事・・年恰好からして執事長なのだろう・・を先頭に
エントランスホールに整列して並ぶ。
雨足は相変わらず強く、外は暗かった。
その豪雨の中を歩いてくる一団の男たち。
風船のようにまんまるに肥った三人の男たちに囲まれるように、
まるで棒のように痩せ細った男が雨けぶる庭園を歩いてくるのが見える。
若い使用人たちが急いで傘をさしかけに走ってゆくが、断られたらしく
後について荷物を運ぶ役に回されたようだ。
やがて急ぐこともなく濡れ鼠の男たちは屋根つきの車寄せに辿り着いた。
執事長が声を張り上げる「ご主人様の御帰りでございます。」
すると整列していたすべての者が一斉にこうべを垂れた。
「おかえりなさいませ、ご主人様。」
ぼくはこの光景に思わず照れ笑いを浮かべてしまった。
甲高い細い声が館内に響いた。
「出迎えありがとう。」
使用人たちは男たちに乾いたタオルを配り、濡れた上着を預かり
している間に病的に痩せ細った顔をした右目にモノクルを着けた男が
エントランスホールをぐるりと見回し、ぼくに目を止めると、近づいてきた。
やがて、手を広げて感嘆の声を上げた。
「あぁ一郎くんだな。佐々木原清人だ。
あぁなんということだ、我が愛息子にやっと会うことが出来た。」
口元を緩めて笑うと見える歯全てが金歯だった。
簡単に握手をすると、踵を返した。
「失礼、先に着替えをしてくる。それからゆっくりと君とは話したいものだ。
それと・・君の結婚式は3日後を予定している。
その祝いの席で振る舞うジビエを獲ってきたのではあるが・・。」
車止めに並べられたおびただしい鳥獣の死骸の群れ・・あぁなんとグロテスクな・・。
これが・・ジビエなのか・・。
「散々な雨に祟られたが今日はいい獲物が狩ることが出来た。その一部を今晩の晩餐につかおう!」
そう一方的に云うと、佐々木原清人は使用人たちに囲まれ廊下の奥に向かって歩いて行った。
他の丸く肥った男たちはどうも賓客らしく、やはり鄭重に使用人たちに持て成されながら
それぞれの部屋に消えて行った。
車止めの鳥獣の死骸はコックの見習いのような若い男たちによって
かき集められ厨房に運ばれていった。






     
       

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