U-BOX


J.S.Bach:Matthäus Passion BWV244 Nr47 Erbarme dich,mein Gott 




  ”人間の体の構造上、下から上へとかける攻撃は相手に大きなダメージを与えることができる。
 肋骨が無い体の真ん中の部分は人間なかなかガードがしづらいものでな。
 勿論試合に出るような奴はおまえ同様腹筋を鍛えて防御力を高めてはいる。
 だが相手の一瞬の気の緩みを見て間隙を突くが如くボディにアッパーを決めてみろ。
 肘を曲げたまま、相手の割れた腹筋と腹筋の間にねじ込むように三角形を描くようにだ。
 相手の筋肉の鎧を貫通して内臓まで震わすようなバンカーバスターのようなアッパーを。
 相手のボディを左右から襲いレバーを痛めつけるフックを。
 そして怯んだ相手のチンに見舞ってやるんだ、フルパワーのアッパーカットを!
 宙を舞いリングに倒れるまでの間、空白の宇宙に漂わせてやるがいい。”




「鶴見U-BOX」とおどろおどろしいフォントで書かれた安っぽい黄色いチラシ。
横須賀の田端和俊の部屋で見つけたものだ。オレはその夜のうちに鶴見に向かった。
どうにもこのチラシが気になって仕方がなかった。
鶴見の駅を降りて川沿いに下るとやがて工場地帯が目の前に広がった。
無機質な色とりどりの工業用の照明は意外なほど目に染みるほどに美しかったが
そこから出てくる人々の顔色はどす黒く見えた。
無能な素人集団による三年余りの政権が去ったことで表面上の明るさは取り戻しつつあっても
アベノミクスは庶民の懐を温かくはしてくれない。景気などマインドだ、と簡単に言葉を並べても
実情はいかなるものなのか。
この先にあるのは坂谷のり子の元夫である高田祐吉だの志水清一郎だの麻薬絡みの
男たちがかつて一斉検挙されたボクシングジムがある。
短絡的に・・そこが臭い・・と思ったわけではないが。
まさかそこに田端がいるわけではないだろうが。
オレはなにかを感じた。
果たして奴の狙いは忍田衛「だけ」なのだろうか_?と。
さんざん娘を辱めた挙句、保護責任者遺棄致死罪に問われた忍田を狙うのは当然だろう。
遺族から見れば殺人罪と同じなのだろうから。
しかし田端の狙いは忍田だけでなく、忍田すら外郭の一部ではなくもっと大きな_。
薬物自体そしてそれを愛好するジャンキー共の全てに向けられたのではないか。
オレはそう勘ぐった。
ただそれだけだ。

オレは「鶴見ボクシングジム」を外から覗いた。
が次の瞬間背中に金属を突き付けられ、声も出さずにジムから遠ざけられ角を曲がった。
背後にはふたりの男がいて、ふたりとも驚くほどに呼吸の浅い男たちだった。
「聴いてるぜ、探偵さん。ここは俺たちが前から見張ってるんだ、邪魔しないでくれるか?」
「いやだなぁ、オレは刑事だよ港湾署の・・。」そう嘯くと金属でオレの首のあたりを軽くたたいた。
「皆本のオッサンから聴いてるよネタァあがってんだ。邪魔すんなよ。」
「誰だ、あんたら?」
「厚生労働省だ。」ふたりの男は偶然なのか、ハモった。
麻薬Gメンさまのお通りだ!ってか。
「わかったよ。黙ってここから退散するよぉ、だから知りたいこと教えてくれよ。
でなきゃここで”麻薬Gメンがここにいるぞー”って叫ぶぜ。」
「馬鹿なコトすんじゃねぇ」右側の男が素っ頓狂な声をあげたので苦笑してしまった。
「公務員が善良な市民に背後から拳銃で脅迫したぞーって聞屋(ぶんや)に売ろうか?」
「拳銃じゃない、ジュースの缶だ。」左側の男がジュースの缶を見せた。
よせよ、コイツも「筋力」飲んでるのかよ_。
「知ったことかよ、善良な市民を脅したことには変わりがない。
あんたら顔写真付きで雑誌に出たら仕事できなくなるだろうな・・」
すると二人がかりで
「皆本警部も田端和俊がこのジムに通っているんじゃないか、と思ったらしいがな。
ヤッコさんが通っていたのはもう二年も前のことだ。
いまどきの高齢者はボクシングぐらい平気でしやがるからな。
いやもちろん健康増進って意味の範囲だがな。」
「田端はここでどんなトレーニングしてたの?おしえてくれよ。」
「あぁ、まじめにやってたみたいだな。
例のパンチドランカーの志水・・知ってんだろ?
昔アレでも紅白歌手だったんだぜ。アイツがトレーナーについてた。
あんなやつ誰も相手にしやしねえが、まぁジジイの相手するのも他に居なかったんだろうな。
志水のやつも相当しごいてたみたいだが一時、えらく上達したみたいだったな。
だが年寄りの冷や水だよな。そのうち見えなくなっちまった_。
だからよ、ヤッコさんはここいらにはいねえよ。」
左側の奴がしたり顔して云うのが気に入らなかった。
「ところでさ・・U-BOXって知らない?」
厚生労働省の役人たちは顔を見合わせてクシャクシャにしかめて見せた。
「しらねぇなぁ・・。なんだそれ?」
オレは麻薬Gメンから距離を置いた。
「ははは、悪かったな、邪魔はしねえよ。あばよ。」


だがガキの使いじゃない。
このまま帰るわけにはいかない。
ジムに出前を届ける岡持ちを捕まえて、身代わりとなって直接ジムの裏口に入っていった。
「ちわー、毎度来々軒ですぅー!」
すると右側に崩れるような歩き方をする皺くちゃな男が出迎えた。
これが元紅白歌手の志水か。
だらしなく開かれた口元からは唾液が垂れている。
「ラーメンお待たせしました。」
志水は黙って手を挙げた。「いつもの兄ちゃんじゃないな・・」
「えぇ。バイトのバイトでして・・。」
「随分オッサンのバイトだな。」志水はオレに絡んできたので話がしやすくなった。
「鶴見U-BOX・・」
志水は顔色を変えて、タオルを畳んでいた高田祐吉が顔をのぞかせた。
「どこで聞いてきたんだい?」
「会長さんから招待状もらったんだけどなくしちゃてさ。
ここに来ればなんとかしてくれるって聞いたんだけどね。」
すると高田祐吉は真新しいチケットをよこした。
「OK、ライヴは23:00からだ。川沿いをまっすぐ行った鉄工所の裏門から入ってくれ。」
そういうとキョロキョロとあたりを見渡して、さっさと帰れと言わんばかりに手を振った。
追い立てられるようにジムの裏口から出るとGメンたちに出くわさないように早足で
その場を離れた。





少々時間があったので立ち飲み屋でビールを二杯ほど飲んで時間をつぶしてから
指定された場所に向かうといまどき流行らなさそうなパンクなファッションに身を包んだ
若者たちの集団が招いた。外灯もない暗い駐車場には高級外車が並んでいた。
チケットを見せると暗い鉄工所の奥へと誘った。
地下に続く鉄の階段を下りてゆくと分厚い鉄のドアがありノックすると奥からあけてくれた。
大爆音で流れるヘビーメタルなアップテンポの曲が耳をつんざく。
色とりどりのスポットライトが、ミラーボールが無数の光を投げかけてきた。
狭い地下室にたくさんの男たち、そして女たち。
狂乱ともいえる熱狂が渦巻いているここで。
いったいなにが始まるというのか。
どこともなく”U-BOX!””U-BOX!””U-BOX!”と歓声が湧き上がり
照明に照らされたのは四角いリングだった。
しかしロープには有刺鉄線がまかれている。

U-BOX・・Underground Boxingか_!
これは・・アングラボクシングなのか!



立ち見の観客たちは札束を手に賭けのブースに殺到している。
いつのまにかオレの隣に志水がいた。
「兄さん、ここは初めてかい?」
オレが頷くと志水は涎を垂らしながら頷いた。
「あんたガタイがいいね、え?どうだい鍛えてみちゃぁよぉ」
「いやぁオレなんてもう40過ぎてますしね、見てるのがいいところですよ。」
「ハハハ、ところがよ、還暦過ぎた爺さんが今でもここのチャンプなんだぜ。」
「そんな爺さんが・・やってんですかぃ?!」
その男が田端和俊であることは容易にうかがえた。
しかしまさか還暦過ぎの男が志水たちに接触し、こんな場末のアングラボクシングを
していたとは思わなかった。
「そぅよ、この俺が鍛えてやったんだぃ。今夜は休みだがよ。
この二年ほど勝ち続けてやがる。だがよ、勝ち方がえげつなくてよ。ハハハ。
ここじゃ大人気だぜ。
あぁいうのがアングラボクシングのチャンプっていうんだろうな。」
「勝ち方がえげつないってぇと・・」
「ハハハ、ここはアングラだぜ。階級も関係ない。ルールなんてありゃしねぇ。
グラブも着けようと着けまいと知ったことじゃねぇ。
メリケンサックつかおうが、ドーピング行なおうがここじゃお構いなしだぃ。
ここじゃ学歴も職歴も肩書も名声も関係ない。金持ちも貧乏も関係ない。
身ひとつで闘争本能だけが試される場所だぃ。
若くてパワーがあってスピードがあっても怯んだ瞬間、負けだぃ。
男と男が人生の行き着いた先のこのリングで最後に花道を飾れるかの
一世一代の賭けをする場所なんだ、どうだい、美しいとは思わないか?
勝てば人生の輝きを見出すことができるかもしれんし・・な。
負けたら・・ハハハ・・そりゃぁ水路のヘドロに沈むんだぃ。」
そういうと志水は気が狂ったような奇声を上げ、気分が高揚したのか
リングサイドの方に向かって歩いて行った。



スポットライトに照らし出された派手なスーツを着た高田祐吉が高らかに声を張り上げた。
リングアナウンサーを気取って選手を呼び出した。
歓声とデスメタルで耳が麻痺した。
狭い会場に歓声が響き渡る。耳をつんざくような大音量のデスメタルが鳴る。
両コーナーに傷だらけの筋肉が弾けそうなほどの屈強な体のファイターが立つ。
両社とも日本人のボクサーの体つきじゃない。スーパーヘビー級のようなガタイ・・。
プロレスラーかボディビルダーのような体つきだ。
「この試合は両者協議の上、グラブなしの素手の試合となります。」
賭け屋のブースはパトライトが周りサイレンを鳴らして締め切りを告げた。

一瞬、場内が静まるとゴングが鳴った。





 

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